かつてフランス革命を肯定的に記述する研究者はマルクス主義者が多く、その著作はマルクス史観で描写されることが多かったが、マルクス主義が衰退した現在においてはそうした傾向は影をひそめている。なお、左派の中では、直接的に行動をおこしたのは民衆でこそあれ主に革命を主導したのは当時育成されつつあった中間層などいわゆるブルジョア階級であり、そういう意味でロシア革命などその後の共産主義革命と異なる「ブルジョア革命」ではないかという研究がなされ、左派からも否定的に見られることがある。 またロシア革命とボリシェヴィキ独裁による恐怖政治、カンボジアにおけるポル・ポトとクメール・ルージュによる大量虐殺、北朝鮮の恐怖政治など、共産主義政権による独裁体制はフランス革命における恐怖政治を発祥にしていること、テロリズムの語源がフランス革命のテロル(恐怖/体制による恐怖政治のこと)であることなどから、今日では歴史家のみならず哲学者などの多くの知識人でフランス革命に否定的な態度をとるものも多い。 恐怖政治において、ロベスピエール派は、革命反対派、穏健派、過激派など、反対派の人物を次々と処刑した。処刑された人物は、ダントン、カミーユ・デムーラン、エベール、ラヴォアジェなど数知れない。恐怖政治の間、パリだけで約1,400名もの処刑が行われた。フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法は、銃殺刑も多かったが、ギロチンによる刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらをふくめると犠牲者は4万人を超えるものと思われる。 ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、テルミドールのクーデター(1794年7月27日)でロベスピエール派が失脚するまで続いた。 1793年3月10日、革命裁判所が設置された。これは上訴審のない、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会 (フランス革命)の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足した。これらは恐怖政治への道を開くものであった。 この頃ジャコバン派では、ジロンド派と山岳派が決裂し、マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。 5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が整体師 、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。 シャルロット・コルデーによるマラー暗殺(1793.07.13)ポール・ボードリー画山岳派独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、地方では6月2日事件への反発が強かった。ジロンド派の宣伝に影響を受けたシャルロット・コルデーが7月13日にマラーを殺害した。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなる。 6月23日には1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定される。民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する「過激派」のジャック・ルーやヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与されることになる。公安委員会は再三改組され、7月にダントンらは排除され、9月に最終的に12人の委員が決定された。これによりロベスピエールが指導権を掌握、クートンとサン・ジュストなどがそれを補佐する構造が完成した。革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。 山岳派は、農民の心をつかむため、6月には国有地の小区画での売却や、共有地の分割を認める法律を制定しており、7月17日には領主権の無償廃止を決定する。さらに、27日には、小麦を独占・隠匿したものに対する極刑を規定した。 山岳派と国民公会は要求に応じる形で、巧みに自分たちの政策実現を果たした。 この頃、民衆が武装して一団となって立ち上がるべきだ、という要請が直接行動を重視するセクションの意見として議会に提出されていた。ロベスピエールが議長となった国民公会は、8月23日、ダントンの介入でこれを採択。しかし、これはセクションのイメージと違い、軍を立て直すための一種の国民総動員令であった。これにより93年秋から94年春までに、40万近い兵力が調達された。 公安委員会は9月5日ジャック・ルーを逮捕し、18日にはヴァルレを逮捕した。「過激派」のクラブや出版物も禁止された。9月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、同月末には全般的価格統制法が制定され、経済統制が実施されるようになった。10月10日、サン・ジュストが公安委員会を代表して演説し、国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的でありつづける」ことを宣言した(革命政府宣言)。 王妃アントワネットのの処刑(1793.10.16)10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソー、ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のロランは自殺した。 さらにフイヤン派のバイイ、三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された。逃亡中のコンドルセは服毒自殺した。デュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。また有名な化学者のラヴォアジェは、審理が終わらないまま、「不用品回収 は学者を必要としない」という理由で処刑された。 12月4日、法令により政府の細目が制定される。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。 1794年には、ルイ16世の妹であるエリザベート王女、ルイ16世の弁護をつとめたマルゼルブ、ラ・ロシュフコー、詩人のアンドレ・シェニエも処刑された。 革命裁判所が死刑を宣告した数は、1793年9月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌年の2月中旬から3月中旬には116、3月中旬の1ヶ月では155、4月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。 中央のパリでジャコバン派がイニシアティヴをとった後も、地方では王党派やジロンド派の勢力が残っていた場所があった。革命政府はそれらの地域に対し、中央のパリから派遣議員を送り、反革命派の粛清をはかった。これに対する反革命派の抵抗により、フランス全土は内戦状態に陥る。 内戦により、ヴァンデ、リヨン、トゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。ヴァンデの反乱は1793年末までに、ほぼ鎮圧され、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうち、生き残ったのは僅か4、5千人であった。リヨンでは派遣議員のフーシェ、コロー・デルボワの指導のもとに教会の略奪が命じられ、叛徒の処刑が4ヶ月にわたり間断なく続けられ、犠牲者は2千人を越えた。トゥーロンでは、陥落後にバラスとフレロンの指揮下で1794年1月末までに千人以上の粗大ごみ が行なわれた(詳細はヴァンデの反乱・リヨンの反乱・トゥーロン攻囲戦をそれぞれ参照のこと)。 ジャコバン派内では、ロベスピエール、もしくはサン・ジュストとクートンを加えた「三頭政治家」へのダントン派(寛容派)とエベール派の戦いという形で分派闘争が起きる。 1794年1月8日、ロベスピエールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行なう。 矛先はまずダントン派に向けられた。インド会社の解散に伴う清算における横領が発覚し(インド会社事件)、1794年1月13日、ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、外国人から収賄している議員の名前を暴露した。これにより議員や銀行家、投機家が逮捕された。 2月、ロベスピエールは「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」という有名な演説を行い、革命政府を擁護する。